8th Squadron
Pege-2
1981年は、第8飛行隊がF-1に機種変更して2年目に当たる年で、8番目のF-86F飛行隊として小松基地で飛行訓練を初めて20周年に当たる年でもある(創設自体は1960年松島基地)。これまで小松→岩国→小牧→三沢と活動ベースを変えて来たが、F-1と言う当時の国産最新鋭機を三沢基地で受領し、戦闘爆撃飛行隊として大きな役割を負う事になる。黄色の第3航空団のマークを付けるのは翌年の1982年が最後となるが、それ以降もブラックパンサーの”黒”とこの黄色は、第8飛行隊のユニットカラ―として、時代のあちこちで登場する。
↑ 上の2枚は、1981年9月6日の三沢航空祭で展示飛行終了後、R/W-28方向の駐機エプロンへ向かうF-1/206号機と212号機。この年は、ミス・ビーグル号が、ワシントン州ウェナッチ市から三沢市までの太平洋無着陸横断飛行に成功した1931年から丁度50周年に当たる年で、多くの市民が訪れたそうである。/渡辺氏撮影
↑1981年9月三沢基地で撮影された第3飛行隊から第8飛行隊に移動した202号機。牽引の際は、スピードブレーキ板が降りている姿が多いが、油圧を抜いているのだろうか・・・
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↑ 胴体下に懸架しているのは、訓練用のCBLS-200でスペンサーで。ロケット弾4発と訓練用の小型模擬爆弾(なすび型爆弾)を4発携行できる。
↑ 1982年6月小松基地で撮影された第8飛行隊(8sq)のF-1 216号機。この時は3sqのF-1も撮影されており、戦技競技会参加で小松基地に展開していたもの。8Sqは、81/82戦技競技会共に優勝を、3空団の長兄3飛(3Sq)に譲ったが、メキメキと力をつけ、参加3回目となる83戦況では、見事に優勝を飾る。
↑ 1981年12月1百里基地に飛来した8SqのF-1/214号機と244号機、他に何機来ていたかは不明だが、写真を見ると増装タンクもなく、クリアーな状態。三沢⇔百里間なら220ガロンの増装タンクなしで来れるだろうが、通常は念のために1本ぐらいは付けて置く。何か他の目的があったのかもしれない。因みにF-1戦闘機のこの薄い主翼には、燃料タンクは内蔵されておらず、胴体にある燃料タンクに約3トン(3823ℓ)のJP-4を積んでいる。JP-4の比重は、水の0.78%で計算。これに220ガロン(880ℓ)の増装タンク3本付けても、約6400ℓしかないので、当然航続距離が短い。しかし、航続距離が短い事が他国に脅威を与えない事とされて爆撃照準装置の搭載が認められたわけである。まだ そんな時代だったのである。